育児と脳生理学の今後の可能性

赤ちゃんを知る。そして母になる。

第三回母学会議 赤ちゃんにやさしい街づくり

育児と脳生理学の今後の可能性

寄稿
小泉英明
(公益社団法人日本工学アカデミー上級副会長)

I. はじめに

育児で大切なのは、自然の摂理に逆らわないことだと思います。自然の摂理を知るには、少なくとも哲学と科 学が必要です。哲学は西周(1829-1897)の訳語ですが、philosophyはよく知られているようにphilo-sophiaから来て、知を愛するというのが元の意味です。一方、科学のscienceですが、語幹の sci- は分ける(分かる)という意味で、物事を要素に分けて理解するという還元論の考えが色濃く現れています。人間を含めた自然をより深く知り理解する営みです。

欧米では、science の対語として、engineering を使い ます。米国や多くの欧州諸国・中国では両者の academy (プラトンのアカデミアを源とする各国の中心的学術組 織)が一対となって存在します。Engineering の語幹の gin(gen) は創造するとの意味で、人間が自然を知る営み を指す科学と異なり、人間が自然にないもの、すなわち 人工の物やシステムを創り(造り)だす営みを指すから です。Engineering は工学と訳されましたが、中国語で は工程学とされ、システムに大切な時間要素を色濃く出 しています。現在は科学も発達しましたが、昨今は情報・ 通信を中心に新たな技術が急速に創り出されています。 Engineering は自然界にないものを人間が創り出す営み ですから、創り出しものに対しては責任が生じます。そこには「倫理」がとても大切になってきます。

最近は、人間が自然界を目に見える形にまで、少しずつ変えつつあるのです。生態学・古生物学・地質学の分 野でも、新しい年代として、人間が自然に影響を与え始めた新たな年代を「Anthropocene」(アントロポセン:人新世 ) とする提案がなされています。

II. 進化の歴史に合わせた育児

人間がどうような生物であって、また、どちらへ進化しつつあるかを知るためには科学が必要です。特に、人間の感情を生み出す情動、論理的思考や判断を生み出す理性、それらの基盤となる記憶や言語などのメカニズム を、正確に深く知るために神経生理学を含む広範な複合領域である脳科学(疑似脳科学ではなく本来の brain-人間がどうような生物であって、また、どちらへ進化しつつあるかを知るためには科学が必要です。特に、人間の感情を生み出す情動、論理的思考や判断を生み出す理性、それらの基盤となる記憶や言語などのメカニズムを、正確に深く知るために神経生理学を含む広範な複合領域である脳科学(疑似脳科学ではなく本来のbrain-science)の研究が不可欠です。

生き物が地球環境に大きな変化を与えたのは、私たちが呼吸している酸素です。二酸化炭素が多かった地球大 気に、藍藻(細菌の集合体)が浅い海に大繁殖して、太陽の光と水から大気中の酸素を創りだしたのです。そして、ずっと後ですが人類が大発生し(現生人類が地球上で総合重量最大の種)、極めて急速に進化した脳を使って地球の自然環境まで変えつつあります。ところが、科学技術は急激に進展しても、人間の進化は自然な生物である限り、ゆったりと流れる時間の中で変化して行きます。この不整合が、育児や保育で最も注意すべき点だと筆者は考えています。そこで、進化に則した保育や育児が大切と考え「進化教育学」という新分野を提唱しています(H. Koizumi, Evolutionary Pedagogy, MBE-Erice, 2015他)。

人間の赤ちゃんは、胎児期の終盤1年間は子宮外で過ごすという A. ポルトマン(Adolf Portmann)の解釈が あります。これを「生理的早産」と呼びます。例えば、馬などの赤ちゃんは誕生するとすぐに立って歩けますが、 脳が大きく進化した霊長類、特に人間は養育者に頼らねば乳幼児期を生きることができません。しかし、この期 間に、これから生きて行く外部環境に学び、また教育を受けることが可能になったのです。育児・保育の本質の一つはここにあります。チンパンジーはこの期間、母親にしっかり掴まって行動し離れません。これは育児にもヒントになります。甘やかすのとは異なり、しっかりした愛着を育む時期だからです。心から信頼できる存在を知って、他者を信じることができる。社会性の原点となるからです。

III. 情報科学技術の進歩と人間

情報・通信に関する科学技術が生まれたのは、進化史から言えばごく最近であって、文明史からいっても大昔ののろしやナポレオンの腕木通信(semaphore)に始まるものです。昨今の仮想現実(virtual reality)一つとっ ても、人間の脳は現実と仮想を十分に区別する脳機能を有していません。情報化社会は急激にやって来ましたが、事前評価(アセスメント)をすることなく、便利・面白いということで、あっという間に人間社会に広まりました。その結果、post-truth(張り付けられた証拠のない真実)が蔓延する現象も、今、世界に広がっています。誰でも世界中に直接発信できると、正誤の判定が極めて困難になります。さらに、情報機器と引き換えに人間の心を売り渡したとさえいわれます。しかし、進化と情報の関係を科学として追及している研究者はまだほとんどいません。

人間が快・不快を、判断・選択の根拠にしてきたのは、自然の中ではそれぞれが生存に有利・不利の判断指標と なっていたからです。飢餓の時は、水と食べ物をとても美味しく感じるのは、生きるためのエントロピーとエネ ルギーを、身体に供給するのに必須だからです。セックスは子孫を残すために快を伴います。ですから快を実行・ 経験すると、再び同様な行動がしたくなる脳の回路は、習慣性にも繋がっています。麻薬は、脳の快感中枢を直 接刺激するもので、騙された快感は生存を有利にするようには働きません。賭博やゲームで同様な快感と習慣性 が生じることについては、さらに突っ込んだ研究が必要です。

IV. 人間の尊厳

ほかの動物には見られない人間独特の心の働きは何でしょうか? 赤ちゃんを守る本能的な行動は、動物の遺伝子のなかに組み込まれていると考えられています。一方、幼児期にも存在する正義感や思いやりの心の芽生えも研究もされ始めています。

そして、人間の意識の芽生えやその構造についても、真剣な深い研究がなされようとしています。

ほかの動物では意識的になされることが少ないのは、 利他行動(altruism)です。利己主義(egoism)が世界 に蔓延する潮流のなかで、温かい心(warm-heartedness, compassion)こそ、深い意味での倫理そのものであり、人間の尊厳の大切な要素であると考えられます。それを 育むのは幼児期が最も適しており、育児・保育や子どもたちの教育も、この視点が大切であると脳神経科学の視 座から考えられるのです。

V. 終わりに

今回は、今、育児や保育に求められているものについて述べました。そして、人間が創りあげた情報機器や情報システムとそのアセスメント(影響の事前評価)の必要性についても、その理由を述べさせていただきました。生物の進化から、かなりはっきり言えることは、昔ながらの育児・保育の心を大切にすることです。生物の進化は一足飛びではありません。何万年、何十万年、あるいは数億年という時間を経て、すこしずつ今の形になってきました。その点を最先端の科学が少しずつ解き明かそうとしています。