赤ちゃんの心と出会う

赤ちゃんを知る。そして母になる。

赤ちゃんの心と出会う〜新生児科医が伝える“あたたかい心”の育て方〜

講演
仁志田博司
(東京女子医科大学名誉教授)

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きょうは、素晴らしい会に呼んでいただきまして、ありがとうございました。去年も呼んでいただいたんですけれども。

僕は、小児科ですけれども、もう40年来新生児専門なので、僕の仕事の3分の2は、産科の先生と妊婦さんとか胎児と、今、伊東さんが言ったように、胎児とお話をしているんですけれども。

きょうは、この「あたたかい心をはぐくむ」と言うタイトルで、僕が今までやってきたことや考えたことをお話ししようと思います。

多分、きょういらっしゃっているお母さん方は、子供をどういうふうに育てたらで良いか知りたいとおもっておられますね。多分、昔は五体満足、健康ですね。それが今は、頭のいい子供に育てたいという願望で、どういう運動をしたらば頭が良くなるか、どんな食べ物が頭が良くなるか、などです。でも、どんなに頭が良くても、心が優しくないお子さんは、幸せになれません。ですから、一番大切なのは、相手の痛みと悲しみが分かる心を持ったお子さんに育てれば、必ず幸せになります。

実は、日本というのは、世界で最も子供が幸せな国だっ たと言われているんですね。これは、『逝きし世の面影』 という渡辺京二という方の本です。この方が、江戸時代 鎖国が終わって、たくさんの西洋人が来ました。そうす ると、西洋人が日本というのはどういう国かと興味津々 ですよね。例えば、頭に鉄砲みたいなものを載せている、 あれはちょんまげなんですけれどもね。男と女の人が一緒に風呂に入る。そんな西洋人が日本のことをいろいろなことを書いた本があって、それが『逝きし世の面影』という、とても面白い本なんです。

その中の1章に「子供の楽園」という章があります。 それには、異口同音に、西洋人のほとんどが、日本とい うのは最も子供が幸せな国だと書いてあるんです。それ はどういうことかと言うと、当時の日本の子供は、たく さん遊ぶ物のがあるとか、おいしいものが食べれるでは なくて、路地に行けば路地は子供の遊び場であって、ど こへ行っても子供に何かあったら必ず周りの人が助けて くれる。どこでもお母さんやお父さんが子供をおんぶし たり、抱っこしている。彼らにとっては驚異だったんで すね。実は、200年ほど前の中世ヨーロッパには、日本 のような子供という概念がなかったんですね。

当時のヨーロッパの人たちは、子供は自分が何であるか(自己)を知らないので人格がないと社会の仲間に入れなかったのです。子供の頭が良くないわけはないですけれども、子供というのは本当に、ヨーロッパではあまり人格はなかったんです。

ということで、間違いなく、少なくとも明治、大正、 もしかしたら昭和の初めぐらいまでは、日本は世界で最 も子供を大切にする国だったんですね。今の日本がそう だと言えないのが残念なんですけども。それから、ピタ ウ大司教というヨハネ2世ローマ法王の時のバチカンの 教育長官をされた方で、アップリカ株式会社の葛西健藏 氏に紹介していただいて知り合いになりましたが、イエ スズ会というカトリックの宣教師のグループで世界中を回っていた方です。その方が50年前に日本に来たとき に、日本に永住すると決めたんですね。その決めた理由 が、日本の子供を見たんですね。日本の子供は、ちゃん とあいさつする。目上の人を敬う。そして、どんな田舎 に行っても一番立派な建物は学校であり、この国は素晴 らしいと考えられたのです。ピタウ様さまは90歳近く で3年か4年前に亡くなられたんですけれども、その言 葉のとおり、日本に帰化されたんですね。

なぜかと言うと、日本というのは、本当に赤ちゃんをかわいがるんです。赤ちゃんというのは、我々の中で一番弱い仲間で、当時は子供はたくさん亡くなったんですね。

なぜかと言うと、日本の子育ての言葉は「育む:はぐ くむ」という言葉ですね。育むというのは、万葉集の『我 が子 羽ぐくめ 天の 鶴群』なんていう言葉にあるよ うに、鳥が羽で卵を温める仕草が「羽ぐくむ:育む」な んですね。だから、ただひたすら温めるんですね。お母 さん、お父さんが抱くのは、ただひたすら愛情を注ぐん です。それが日本の子育ての言葉です。一方英語の子育 ての言葉は、raise a child ( 偉くする、強くする)とか、 rear a child(飼育する。栽培する)というのです。飼育 する、栽培するという意味と、ただひたすら愛情を注ぐ とでは、どっちが素晴らしいと思いますか。日本という のは、本当にそういう意味でも、私たちの祖先は素晴らしい子育てをしたんですね。

日本の医学的データでは、僕は新生児の専門なんですが、現在世界で一番子供が助かる国なんですよ。

これは1990年のアメリカの一流新聞の一面に「日本 人は、世界で一番赤ちゃんを助けている」というふうに、 大きく掲載されたのですけれども、実はあそこに写って いる2人の外国人ではアメリカの国会議員なんですね。 アメリカで、「俺たちに教えてというのになぜ日本がそ んなに赤ちゃんの成績がいいんだ、本当か」と、僕が働 いている東京女子医大に見に来たんですね。あそこに 立っているハンサムな髪の毛がいっぱい生えているのは、 25年前の僕なんですけれども。

それで、日本の新生児医療が世界一になったときに、 実は、私たちは命を助けることについ夢中になって、赤 ちゃんの心を育むことを忘れていたんです。気が付かなかったんですね。例えば超未熟児で1000グラム以下の 子供は100日ぐらい保育器の中に入っているんです。もし、皆さんが100日、この狭い箱にいると、どうなると 思いますか。そのストレスに加え、1日何回も採血され たりするんですね。そのときに加わるストレルによって 赤ちゃんに起こるのは、小泉先生もいろいろとお話をし てくれましたように、人間の心の中枢という前頭前野と いう脳の部分の細胞のアポトーシス、細胞が死んで新しいのができているんですけれども、その死ぬスピードを 速まるのです。ですから、自分たちが命を助けるために やっていることが、実は赤ちゃんの「あたたかい心」を 育むのを阻害していたということに気が付いて、今はそ ういうことをなるべくしないようにします。

小さな動物に痛みを与えたり、いじめるとどう反応す るか。端っこに隠れてしまいますよね。えさをあげても、 出て来ない。それで、無理にあげようとすると、ガーっと飛びかかってきますよね。だから、そういうふうにストレスを掛けられ続けると、このように「逃げるか戦うか」という反応をするのですね。

なんとなく今の子供にそういうのが見られませんか。引きこもるとか切れるとかですね。ですから、そういうことが実はもう子供に起こっているのです、子育ての中でストレスを与え続けると、人間の本能の中にあった、いわゆる生存するための生き残るための、逃げるか戦うか、の反応が出てしまうのです。

ところで本来の子育てというのは、子供をただひたす ら抱きしめて、愛情を与えるのです。そういうことによっ て、人間は動物からもっともっと高等な生きものになっ たんです。

これは、小泉先生が話された最新の脳の機能の研究というのは、昔は死んだ後に解剖してどこがおかしいかわかるレベルから、今は、生きている赤ちゃんの脳の機能を分析することができるようなレベルになったのです。それは本当に日本の小泉先生方の素晴らしい仕事なんですけれども。

これは、心の中枢と呼ばれる脳の高次脳機能を示すシーマです。脳の大脳皮質のいろいろの部分が記憶とか計算 したり、感じたりという機能をします。例えば、ここに ある物を、丸くて、赤くて、つるつるして、いい匂いが して、かむとおいしい、という五感の情報が入って、自 分の今まで生きてきた記憶が呼び覚まされて、「あ、こ れはりんごだ」と思うんですね。ところが、それをりん

ごと言って終わりますか。僕は福島の田舎で生まれたん で、りんごが有名なんですが、小さいときはおふくろと 一緒によくりんご畑に行って、りんごをもいで食べたん ですけれども。ですから、りんごと言うと、僕はふるさ とを思って、おふくろと思うんですね。なんだか胸がう るうるするんですね。それ以外に、僕も青春時代に恋を したりなんかしてですね、りんごと言うと僕はすぐに島 崎藤村の初恋という詩を思うんですね。「やさしく白き 手をのべて 林檎をわれにあたえしは 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり」。僕も若かったですけれども。 大概初恋は破れるものだから、僕もそのときに初恋の人 と破れて、りんごと言うと、その初恋のほろ苦い悲しい 思い出が出てくるんです。

そういう感覚が出るのが、人間なんです。それが前頭 前野の高次脳機能ですね。実は、前頭前野を取ってしま うとどうなるかと言うと、「あ、これはりんごです」。「り んごから何か思い出しますね」。「あ、これは食べられま すよ」。「もう少しないですか」。「青森が有名です」。そ れしか出ないんですね。でも、多分伊東先生だったら、 僕と同じように、初恋とか、いっぱい出てくるんですよ。 それが、人間の人間たるゆえんなんですね。

「あたたかい心」というのは、相手の心、痛み、悲しみ、 喜びとかというのを自分のことのように感じることがで きるんですね。それが、人間の人間たるゆえんで、それ の機能が前頭前野にあるんです。

実は今日は、伊東先生が話されたように、何か私にも 忘れられない思い出となる日になるのです。葛西健蔵氏・ 内藤寿七郎先生・手塚治虫氏の3人の賢者が日本の子供 の心が危うくなっていると、あたたかい心を子供のころ に育む運動を大体40年前に始めました。わたしも小児 科医として、子供が幸せになるのは学校の成績などでは ない「あたたかい心」であることに感動して、1985 年ごろから加えてもらいました。

なんと葛西健蔵氏と伊東先生の約束で始められたこの 『母学』の講演会の日に葛西健蔵氏が亡くなられたので すが、葛西健蔵氏は、ここに書いてあるように「一人一 人がみんな幸せになるためには、脳科学に裏打ちされた 感動を学問する生命感動学が必要である」と述べられて いました。それは、単に知識とか技術とかだけじゃなく て感ずるものが大切であるとするものですから、伊東先 生の御専門の芸術に通ずるものなのです。美しいものを 感ずる。美しい音楽を感ずる。そういう心を持つことが 大切だと教えられて、そこから演繹してあたたかい心を育む子供の幸せ運動を始めたのです。

それから、手塚治虫先生は葛西健蔵氏と親友で、もちろん皆さんは覚えていますけれども、手塚先生は「子供に祈る」という言葉を使いましたね。ひたすら子供に祈る。それが子供を幸せにする。子供は、祈るだけでも立ち直れる素晴らしい才能を持っているんです。どんな子供も、子供自身が素晴らしい才能を持っている。

それから、内藤寿七郎先生は、私ども小児科の神様の ような先生で、育児の神様と言われていました。内藤先 生は、母親とは、単に子供を産んだだけでなく、子供を 抱きしめて母乳を与え母性を勝ち得える過程(mothering process)を経て母となった者である、とおっしゃられた。 内藤先生は、子供に関わる者は「代理母(他人の受精卵 で子供を生むだけ)」の言葉を使ってはいけないと言わ れいる。